2017-06

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わけわかんないことば:エスノメソドロジー

这两天一直被这个词困扰……让个社会学白痴的人理解这东西还真是费劲= =
这单词竟然有16个字母长!!要命了><~~~


エスノメソドロジー  ethnomethodology
 人々 民衆(ethno)の方法論(methodology)。
 ネオプラクシオロジー(neopraxiology)と呼ばれることもある。
 1960年前後に、アメリカの社会学者ハロルド?ガーフィンケルによって始められた。
 ガーフィンケルによれば、「社会のメンバーが もつ、日常的な出来事やメンバー自身の組織的な企図をめぐる知識の体系的な研究」。


 エスノメソドロジー研究では「会話分析」が頻繁に用いられる。


俗民方法學(Ethnomethodology)    


Garfinkel認為社會事實的客觀實在是日常生活協調(concerted)活動的持續完成,完成
這種協調所必需的那些尋常而富有技巧的方法為社會成員所熟習使用並視之為理所當然,事實上這些方法即是社會成員的日常活動。因此日常活動可說具有自我解明(account)的反身性特質,日常活動被社會成員用來解明、組織同樣這些日常活動,而
俗民方法學這門學問即是用來分析使得常民的日常活動顯得合理而有秩序可循的日常活動方法。


エスノメソドロジー えすのめそどろじー


アメリカの社会学者ハロルド?ガーフィンケル(1917-)が、自らの研究方法を呼びならわすために作った造語。文字通りには「人々の-方法論 (ethno-methodology) 」を意味する。

名称の由来
ガーフィンケルが陪審員研究に従事していたときに、陪審員たちが、まさしく陪審員として判断を行うという課題を、独自の方法論をもって遂行していることに注目したことから名づけられたと言われている。したがって、エスノメソドロジーとは、まずもって社会成員によって用いられている方法論そのもののことであり、と同時に、その方法論についての研究の名前でもある。


秩序問題からの離脱
かのタルコット?パーソンズの門下生であったガーフィンケルは、パーソンズが「社会学の根本問題」と呼んだ「秩序問題」、すなわち「社会秩序はいかにして可能か」という問いに取り組んでいた。当初ガーフィンケルは、アルフレート?シュッツのアイディアにヒントを得ながら、この問いにパーソンズとは異なった解答を与えようと試みていたが、やがて会話分析の創始者ハーヴィ?サックスらと共同研究をするなかで、この問いを、社会学者が解答を与えるべき問題ではなくむしろ、社会成員たち自身にとっての課題として捉えるようになる。


「秩序問題?」はある意味で奇妙な問いである。なぜなら、社会学者があれこれ考える前に、社会秩序は社会生活を営む成員たちによってすでに成立しているからだ。既に成立しているものに対して「いかにして」と問うとき、そこには「成立しそうもないものが成立している」という驚きの感覚があるだろう。こうした感覚は、例えば「行為の本当の意図は行為者自身にしかわからない」という前提のもとで、にもかかわらず相手の行為の意味がわかるのはなぜか、と問うことなどによって生じてくるにちがいない。けれど、社会秩序が既に成立しているものなのであれば、そうした問いを立ててみることとは別に、現に成立しているその秩序のありかた、すなわち社会成員?が日々の生活を営んでいる方法(論)そのものを記述してみること、このことがまず試みられてよいはずだ。こうしてエスノメソドロジーが生まれ、以後ガーフィンケルとその同僚や教え子たちは、実際にその課題に取り組んでいくことになった。そこでは、さまざまな「人々の方法論」が記述されると同時に、「秩序問題」を成立させていたさまざまな前提(上の例でいえば「行為の本当の意図は行為者自身にしかわからない」という前提)のほうが、むしろ誤りであったことが指摘されていくことになる。


記述の対象
現在でも、社会学はさまざまな社会現象に説明や解釈を与えること、すなわちある現象の原因をさぐったり、それを分類したりすることでそれを「よくわかる」ものにしていくことを、主な仕事にしている。ここには、社会現象はそれだけではよくわからないものであり、社会学者が分析することでより「わかる」ものになるはずだ、という構えがある。


それに対して、エスノメソドロジーの行うことは、ある社会現象が、ほかならぬその社会現象であると理解されているということそのものを記述しようとすることである。たとえば、自殺率の増減をなんらかの社会的要因によって説明することはできよう。だが、そもそもそれが可能であるためには、多様な「人の死」のうち、どれが「自殺」であるかがあらかじめわかっていなくてはならない。でなければ、そもそも自殺の数を数えることもできまい。言うまでもなく、ある死が自殺であるかどうかは不明なことは多々ある。それでもその死を論じ扱う人々は、さまざまな推測をしながら、その死について判断を加えている。つまり、そこには、自殺とその他の死をわかつための、人々の方法論(基準)がある。社会学者もそれを前提にして初めて、自殺率の分析ができているのである。


もちろんそうした方法論(基準)はしばしば曖昧で、一義的な結論を導くものではないこともあるだろう。だから、社会学者はそれに厳密な定義を与えるべきだ、と考えることもできる。実際多くの社会学研究は通常そうするのである。だが、たとえ曖昧であっても、人々の活動は出鱈目になされているわけではない。そこにはそれなりの合理性?理解可能性がある(場合によっては「曖昧にしておく」ことだってひとつの合理的な活動である)。そのように営まれている社会現象を、社会学者による厳密な定義によって置き換えることは、その現象にもともと備わっていた理解可能性を、記述の対象から除外することになる。


こうした通常の社会学研究のなかでは、ある社会現象そのものの理解可能性も、そしてまたそれをつくりあげている社会成員の組織だった(方法論的な)活動も、研究の前提のままになっていて、記述の対象となることはない。それを丁寧に記述してゆこうというのが、エスノメソドロジーの試みである。


記述の手法
エスノメソドロジー研究においては 対象も用いられる手法もさまざまであって、特にこれでなければならないという決まりはない。ひろく用いられているのは「会話分析」という手法で、日常場面から医療、法廷、教育、企業オフィスなど、様々な場面において、会話をとおして成立しているさまざまな社会現象を録音録画し、会話のみならずジェスチャーなどの身体の動きも含めた詳細な分析がおこなわれている。


もちろん、すべての社会現象が会話をとおして成立しているわけではないし、すべての場合で録音録画が可能であるわけでもない。フィールドワークによる記録や聞き取り、新聞や雑誌記事の分析、テレビ番組の分析などをとおして、ある現象がどのように理解可能なものとして成立しているかを明らかにするさまざまな試みがなさている。また、そうした場合の分析手法をどのように彫琢していくかということも、現在進行中の課題である。


いずれにしても重要なのは、ある現象がまさに起こっているその現場へと接近し、社会成員がその現象を組織だったしかたでつくりあげている、そのやりかたを記述することである。私たちはつねに社会秩序のなかにいるのだから、特別な場所にいかなくても、いまここにある社会秩序の研究から始めることもできる。実際、「会話分析」は、ありふれた日常会話が、それ自身の権利において、精巧な社会秩序を備えた立派な研究対象であることを示すところから始まったものだった。


ただし、人々のおこなっていることを記述しようとするかぎり、社会学者も、ひとりの社会成員として、最低限そこでおこなわれていることが何であるのかを「わかる」ための能力を持っていなくてはならない。日本語がまったく理解できない人には日本語の会話分析はできないし、法学的知識のまったくない人には裁判場面の分析はできないだろう。社会秩序が成立しているその場面へと接近するには、社会学者のほうも、不器用にであれその秩序に参加することができなくてはならない。


逆に言えば、社会学者が「しろうと」として参入していけるどんな場面においても?どんな現象についても、エスノメソドロジー研究は そこですぐに開始できるのである。


俗民方法學(Ethnomethodology)       


一、    意義


俗民方法學基於以下的概念,即每天平凡例行的社會活動與互動,乃是透過不同技巧、實務與假設的運用才為可能。這些技巧、實務與假設就是俗民方法學所謂的「方法」。俗民方法學的主要目的之一在於研究社會的成員如何在持續的社會互動過程中完成「指示性」的行為。「指示性」一語的意思並非普遍的,而祇是要看其行為脈絡情境而定。


俗民方法學主張並承認一般的民眾企圖解釋社會的事實,進一步說,社會成員共同意識企圖理解他們週遭進行的社會世界,按俗民方法學者的觀點,是一主要的途徑,在其中社會結構得以創造並存續下去。


俗民方法學看社會的結構為社會成員解釋的繼續過程而產生的某些事情,嘗試理解我們的世界,並說明發生了什麼。


部分學者以為,俗民方法學填充了一條裂溝,那是未被其他的方法諸如調查研究所填充的,主要是研究日常生活的常識的特質,強調那些「眾所週知」的事情。


俗民方法學蒐集資料的主要技巧之一是觀察。談話研究者時常以拷貝談話錄音的方式研究資料。由於是屬探究的特性以及深入觀察所須,大部分的研究在性質上必須是微觀的。


俗民方法學者以為傳統的社會學研究者像是調查研究者傾向於認可某些事情才是值得社會學研究的現象。就是,調查研究者(按照俗民方法學者的意思)把社會過程形成現象當作已知或指定研究的開始。他們試圖尋找這些現象的起因或相關,卻未嘗試闡明這些現象如何起來或成為研究的旨趣。依俗民方法學者的看法,這些問題之所以起來,多半是專業的社會學者與一般人共有每天的常識實務,使用一樣的自然語言,並和一般人一樣同意哪些適當的問題應予研究。這些專業的社會學者,按俗民方法學者的說法,和一般人一樣的研究途徑研究問題,只不過較謹慎,並注意可信度、有效性等。


   二、    俗民方法學具有以下優點


(一)長期的:作為持續觀察的一個方法,俗民方法學能當它們發生時記錄改變且不必像在斷面調查裡依參與者的記憶作記錄。


(二)非言語的行為和言語的行為皆能研究。


(三)俗民方法學提供理解受測人如何看待問卷,和為何他們那樣作答。這探討可提供有價值的分析在調查研究的無反應的選項。


(四)提供一理解:一致性而非真正的信度,有時候是如何由編碼者跟循常識規則所達成的。


三、    缺點


(一)產物:如果想要研究某些社會產物,俗民方法學不是選擇的方法,因為它只重視所由生出的過程。就是如果你要研究美國人平常的態度,不應使用俗民方法學,而應採用調查方法。


(二)大規模研究:大規模的泛眾態度的研究較適於調查研究而非俗民方法學,一則因為在研究產物而非過程,也因他們不能有效地由俗民方法學者用觀察與實驗法研究之。


    俗民方法學不但集中著力於社會互動裡的參與者對日常事物了解的過程與途徑(如此彌補了其他方法的重大忽略),它還看待其他方法本身為有待研究的現象,以提供我們重要的內審有關諸如模糊的調查詢問的釐清以及調查資料編碼的信度。


    總之,俗民方法學研究每日的、平常場合的例行社會活動。俗民方法學探討的一個實質部分是直指在社會互動裡參與者如何了解過程的研究。二人交談當中,意思的實質部分是共有的且事先理解的,而不是逐字表明的。例如,我問:「聚會開的如何?」我是假定共有我推斷對聚會的知識。這類的共有與理解常在諸如信件和日記這些個人文件的解釋上是一件困難的事。俗民方法學者研究參與者如何在社會互動裡證明此共有理解確保他們是溝通恰當。


    共有贊同的釐清之外,有些用字和措詞的意思部分地或唯一地倚於它們使用所在的社會前後關聯。這些叫做指標性。常用語的例子像「他」、「她」、「它」、「你」和「他們」、「這裡」、「那裡」、「這個」、「那個」。俗民方法學者以為甚至這些字詞的意思從不能通則化適應全部的情境,也從不能自由的關聯,這些字詞的意思對於交談中的參與者被釐清的規則是普遍的。


    總之,俗民方法學者相信社會探討裡強調應該在社會互動的過程,透過它社會現實被構建與保留,而非在這些互動的終端結果的產物,他們覺得這才是大部分社會研究者主要的探討焦點。


  愛情生活中的俗民方法學


   「愛情」這件事情有規則嗎?情人間的「默契規則」又是如何產生的呢?「愛情」中有所謂的「理所當然」嗎?社會學理論討論「愛情」嗎?


   「How is social order possible?」是社會學中核心的問題,究竟一樣米養百樣人的狀態下,這些看似有模有樣的社會秩序是怎麼產生的呢?Parsons認為乃是預先存在一個規範秩序,也就是社會成員們對社會的一致性理解,透過內化(也就是社會成員的社會化教育)過程,社會成員共享此秩序並依此實踐,從而產生秩序避免戰爭[1]。然而我們要提出的疑問是,愛情秩序真的預先存在嗎?真的存在愛情的一致性理解?若是有,又何來情侶間的爭吵呢?


Garfinkel則是從另一個角度來看秩序問題,他認為Parsons的說法中忽略行動者大量權宜性、創造性的努力,把人當作是個「文化傀儡」(cultural dope)[2],事實上社會秩序是一個「永無止盡、正在進行的權宜性成就」,「規則」乃是在行動之後使行為成為「可說明的」、可描述的工具[3],因此並非存在一個固定秩序在於行動之前,秩序反而是行動者在行動中大量權衡的創造性結果。這樣的觀點讓我們更能深入觀察日常生活中活潑變化的規則,在過往社會學硬梆梆的政治經濟結構規則中,開闢一條新的取徑去看更真實的俗民生活成員如何實踐,就像宋文里所言:他們只是在從事他們的生活,把事情用社會關係給做出來而已——而那關係本身常常就是最主要的事情[4]。本文試圖用俗民方法論觀察過去社會學大論述中所忽略的愛情關係。



很多事情一點也不理所當然


    若說愛情當中有什麼理所當然,這彷彿是說應該有一本愛情教科書,規定好什麼行為表示愛,通訊時代的男女要如何聯絡,或者是吃飯錢誰付之類的,但談過戀愛的人一定知道:很多事情一點也不理所當然。再細細去體會兩個人相處個性的差異帶來的衝突,更會發現原來自己個性造就的想法一點也不理所當然。這也正是Garfinkel著名的「破壞實驗」——透過打破規則的舉動使人們到注意平日所忽略習以為常的秩序。



電話原則


「你為什麼不接我電話?」女生等了老半天電話極度不耐煩地質問。


「為什麼看到我的未接來電不回電話」女生氣急敗壞地跺腳尖聲。


「………ㄜ……因為……我想說妳還會再打來啊!」男生不甘示弱理直氣壯。


陪伴原則 


「妳為什麼去哪裡都不跟我說?」找不到人的男生相當不高興。


「我只是跟朋友去pub玩啊!」女生覺得男生怎麼大驚小怪。


「妳怎麼可以都不陪我到處跟別人去玩!妳一點也不重視我!!」男生生氣地掛掉電話。 



情人節原則


「情人節怎麼沒有準備禮物送我?」女生失落的聲音中顯得有點憤怒。


「誰說一定要有所表示?誰規定一定要過情人節?」男生有點覺得莫名其妙。


「愛我就應該要有所表示啊!」女生略帶氣憤急躁地教訓。


「我不說或是不做什麼不代表我不愛啊!」男生孩子氣式地反駁回去。


     上述的例子常在男男女女的相處中間發生,其中隱含著兩方對於這些原則的不同預設,例如有人預設看到對方打電話來應該要積極回電話,而對方其實恰恰沒有這個概念,使得原本女生認為理所當然的「電話原則」被突顯出來,或者是商品滿天飛的情人節一定要有所表示的「情人節原則」,兩個人應該要形影不離還是各有自由的「陪伴原則」……等等。這說明愛情實踐過程許多規則並非先規定好,而人們只是遵從,相反地這些規則是在實踐中不斷地權衡(或者說不斷溝通與爭執中)形成。


    愛情關係牽涉的是兩個不同個體的磨合,因此很多人們從小到大視為理所當然的事情會因對方與自己的差異而發現,細微之處舉凡用餐先吃飯還是先吃菜,或是相當個人的時間觀:約會要多久以前約?一週前、幾天前、臨時約,以及難以評估的幽默感:這句話或這個動作好笑?難笑?,或者是不可共量的審美觀:這套洋裝是清純甜美?還是俗不可耐?


    當我們感受到所有事不再理所當然的同時,又要如何重新創造秩序呢?Habermas認為理性溝通能夠幫助我們尋求到「一個共識」,Lyotard則認為我們應當尋求「多元共識」,「共識」不過是一個討論的狀態罷了!前者強調了「理性溝通」的重要性,後者強調了「共識之不可能達到同一」以及「多元政治」的重要性,這些都是面對民主政治上的態度,然而愛情呢?愛情作為民主時代最後的集權主義陣地[5],或許在理性言語溝通之後,我們需要更多的愛與包容。


 

● COMMENT FORM ●

汗……chi你在干虾米
好深奥啊,一头雾水ing~

ぃゃ、難しいや。。。
漢字の方が便利だよね。
意味がだいたいわかるから

小田さん、ようこそ^^
最近社会学を独学しはじめたけど、このような火星語みたいな単語がどんどん出てきて、もうパニックに陥ってしまった><


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